『チョムスキー入門』町田健著(光文社新書)

2007.5.2(水)

言語の深層構造はチャンクで成り立つのか?

 アメリカでベスト10に入るほどの著名人であるノーム・チョムスキー博士は、政治や報道に関して辛辣な舌鋒を振るう言論人として活躍中ですが、博士はじつは言語学者として「生成文法」という革命的な文法理論を構築したことで知られる人物です。
 生成文法は決して易しい理論ではありません。当社にはチョムスキーの原書を読みこなせる者は誰もいないし、外部スタッフの英語話者たちも触りだけには目を通すけれど、解釈が面倒らしく、博士の著作の1冊を読破した者がいるとは聞いていません。
 正直申して、チョムスキー理論は解説本に頼るしかありませんが、そのうち町田健著の『チョムスキー入門』(光文社新書)は生成文法の何たるかを教えてくれる恰好の書と言えます。ただし、本書はチョムスキーに賛同していくわけではなく、むしろ生成文法が不完全な理論であるとする証明を試みています。
 巨人チョムスキーは、生成文法の不備と思える点をあげつらう相手にあからさまな反証を示さないようです。博士はたぶん自らが発表した生成文法が人間の言語の詳細を完全に説明しうるものと思ってはいないはずです。チョムスキーは終始一貫、言語のシステムはヒトの脳に先天的に備わっているもので、人間なら誰でも周囲で飛び交う言語を母国語として獲得できることを強調しているにすぎないと推察します。
 言語はそもそも、人間個々の脳内でそれぞれに生成されるものゆえ、地域ごとに基礎的な「音声・単語・構造」を共有するものの、個人言語の質量は微妙な点で食い違います。話し言葉は論理的に不完全ゆえに、私たちは動作や顔の表情を混じえてコミュニケーションを成立させています。インタビューでの話し言葉をテープ起こしすると、私たちがいかに不完全な構文を話しているかがよく理解できます。
 また、英国人に“Do you understand German?”などと聞くと、“I'm still having trouble with English.”などと母国語さえ十分でないのに、とする冗談めいた返事が戻ってくることがあります。多言語が往来する欧米地域ならではの認識ではないでしょうか。言語は自然界に備わる万有引力の法則のごとき絶対性を示す物理上の原理とは本質的に性格を異にします。
 個人差はともかく、人は誰しも5歳前後で母国語の話し言葉を獲得しますが、書き言葉の習熟度では大差が生じます。当社は出版社ですから、書き手の原稿を編集しますが、99%以上の確率で何らかの手直しをしています。私どもはこの作業を浄化とか濾過と呼んでいますが、半分以上をリライトする原稿が大半を占める印象です。読者に誤読させずに、気持よく読んでもらうためには、かなり高度な日本語の作文技術が要求されます。
 さて、本書は次の2つの例文を示して、英文の基本構造を説明しています。

 (a) A pretty girl / played the piano / in the auditorium.
 (b) A small cat / chased a rat / in the room.

 すなわち、最初の3語を「名詞句」とし、残りを「動詞句」とし、ついで動詞句の中から「前置詞句」を切り離すことで、英語の「句構造規則」をわかりやすく説明しています。チョムスキーの原書を読めない者にとってはじつに有難い本です。
 (a)の中には a pretty girl、the piano、the auditorium の3つの名詞句があり、9語中7語を使っています。英語は名詞句の作り方が大切な基礎になるので、当社の「チャンク法」では、最初の段階でこれをトレーニングします。同時に<前置詞+名詞句>から成る前置詞句の構造の基礎訓練も重視します。
 そして、a pretty girl を「主部」、played the piano を「述部」、in the auditorium を「副部」として、<S/V・O/A>という語順を理解します。 (b)はまったく同じ構造の文で、この種の文型は数多く出てきます。
 どの言語の句構造も「深層構造」としてヒトの脳に備わるものの、英語の wh 疑問文は深層意識において「変形文法」の適用を受け、口から出る言葉は「表層構造」となって生成される、とチョムスキー理論のハイライトを本書は次の例文を示して解説しています。

  表層… What / does the professor / teach / at college?
  深層… the professor / teaches what / at college.

 実際に話される言葉は表層構造のほうですが、深層構造文は先に示した<S/V・O/A>と同形です。他言語を理解するには、深層構造を理解したほうがいいかもしれませんが、私どもは「言葉は一種の癖」と確信するので、チャンク法では表層構造の斜線で区切った単位で練習します。つまり、does the professor と<助動詞+主語>の形で癖づける点がミソです。
 他の英文法理論は「助動詞は動詞の1つである」としますが、われらがチャンク法では、たとえば be 動詞文の I'm や you're not はもとより、do I、he doesn't、have you、I have been、will you、it must be などのように、進行形や受身に登場する助動詞 be 類を含めて、助動詞 do 類、完了用の助動詞 have 類、can や might などの法助動詞、そして have to や going to などの擬似助動詞を主語と一揃えにしたチャンクを最も基礎的な練習メニューとします。
 じつを申すと、英語は個々のチャンクが独立する言語ではなく、前後のチャンクと相当に強い絆を有しています。結果的に英語は日本語の3倍近い早さで「思考→発話」がなされるため、実際の会話ではゆっくり考えている暇はありません。英語は論理性の高い構造を持つがゆえに、理論より実践を先行させる他に類を見ない言語と言えます。

(K・T)

【注】S= Subject(主語)、V= Verb(動詞)、O= Object(目的語)、A= Adverbial(副詞類)