■「ハロー・イングリッシュ」より(1)
民族の単一性にサヨナラを告げる日

2002.6.26(水)

 去る6月22日、早稲田大学教育学部の東後勝明教授を山口県小野田市の山口東京理科大学に招いて、「子供の早期英語教育」に関する講演会が開催された。
 東後教授は通称「ハロー・イングリッシュ」こと「地域で進める子供の外国語学習」における文部科学省のアドバイザーを務める人だが、以前NHKのラジオ英会話を担当したこともあり、たくさんの著書もあるので、ご存知の方は少なくないと思う。
 教授の講演で注目すべき点のひとつに「多種多様な異文化がぶつかり合って、別の新しい文化が形成される時代にあって、単一民族が単一文化のもとで単一言語だけを話す(monolingual)社会の状況が世界の中で今後どのような社会現象をもたらすかを考えておかなければならない」という指摘があった。これを言い換えると、「21世紀の日本人は多数の異言語文化とどのように付き合っていけばいいのか?」という提言になろうか。
 世界で最も単一性を維持しているのはアイスランドで、日本が2位、3位が韓国という話が東後教授から紹介された。もちろん、アマゾンやニュージーランドの奥地に住む少数民族を除いての話であろうが、日本および日本人が孤立しやすい背景を持っていることには間違いない。なお、4位は英語圏とのことだが、ここでは単一化というより、英語の中にさまざまな言語が入り込んで融合化が促進されていると見なすべきだろう。
 アイスランドは自然環境が守られて、人の情が厚く、とても美しい国、とNHKの「地球に乾杯」のスタッフのひとりから聞いたことがある。この地球上にいつまでも残してほしい風土だが、仮にアイスランドがこのまま単一性を保ったとしても、地球的規模で考えると、オーストラリアのアボリジニの単一性が他に影響を及ぼさない点と大差はない。
 ところが、世界の人口の50分の1を占める日本人が他民族と交わることなく、単一性を続けるとなると、民族の交流がますます激しくなる今日、日本人の単一的な考え方が地球上の摩擦のタネになりかねない。それゆえ、日本人は異文化理解に積極的と取り組んで、交流の道具としての英語を学ぶべきで、そのための英語学習は早いほうがよかろうと主張しているのだと東後教授は自らの立場を明らかにした。
 日本人は2000年前には単一民族ではなかった。北から、南から、半島から、大陸から、さまざまな民族が日本列島に移り住んで混血し、現代日本人の祖先を形成した。個々の日本人の遺伝子を調べてみれば、その厳然たる事実が容易に判明するはずだが、いま再び日本人に別の新しい血を加えなければならない時代を迎えたようだ。
 明治以降、わが国はずいぶんとお抱え外国人の世話になってきたが、このたびサッカーのワールド・カップに挑むにあたって、フランス人のトルシエ監督から西欧型の教えを受け、また何人かの選手が海外留学を経験したことで、日本のサッカーはチョンマゲ時代から脱して、わが国は久し振りに新しい時代の幕開けを体感できた。
 そしてさらに、日本人の身体能力が低ければ、今後はそれを高めるために、カメルーンやセネガルの血を入れるのもよかろう。生物的単一性が継続されると、女性の体格は向上しても、男性の体力が低下するのは避けられないからだ。しかし、事態はそんなに簡単ではない。
 大分県の中津江村がカメルーンの選手を大歓迎して、われわれには異文化を気持よく受け入れる精神性があるかに見受けられたものの、いざ彼らと結婚となると、すんなりといくだろうか。わが民族には依然として他民族への差別感情が根深く残っており、これを克服するには、彼らが日本に帰化して、数世代を経過しなければ、わだかまりが完全になくならないというのが現実だ。
 近年、単一性を捨てて、自らが他文化(とくにアメリカ的文化)に取り込まれていく傾向が少数民族の間にあって、その流れを押しとどめようとする動きが民俗学者などにあるが、彼らだけに単一性の保存を強いるのは「お前たちは動物園の檻の中にいろ」と言っているようなもので、檻の外側の勝手すぎるわがままではなかろうか。普遍的文化の便宜性を知ったアボリジニに向かって、荒野に戻れと言うのはいささか酷というものだ。昔のアボリジニのままでいたいかどうかは本人が決めることで、他人がお節介することではなかろう。
 好むと好まざるとにかかわらず、地球の平和を最優先させるには、世界中の文化を同質化することが有効かもしれないが、そのことを勘案すると、日本人だけがかたくなに民族の血を守ることができなくなってきた。われわれ日本人にもまた、単一性にサヨナラを告げる日が近づいている。
 東後教授は「かつてはバイリンガル(2カ国語を話す人)が特殊な例として注目を浴びることがあったが、いまや世界がどんどん狭められていくなか、1つの言語しか話せない単一性がどんな状況を作り出すかに創造力をめぐらせておかなければならない」という意味の論旨を展開されたが、いろいろなことを深く考えさせられる中身の濃い講演であった。
 異文化と親しく交わろうとするとき、言葉による交流の手段は「英語」しかないことに気づけば、われわれ日本人もまたバイリンガル者になることを目指さなければならないのだろうか。