■愚妻は my stupid wife ではないんだけど……
2006.10.13(金)
ぼくが日本語を話すとき、自分のワイフを示す場合は「ぼくの妻」と言う。日本人が「家内」と言ったり、「女房」と呼ぶのは聞き取れるけれど、ぼくの口からは妻以外の言葉はなかなか出てこない。英語を話すとき、たぶん
my wife と言っているせいかもしれない。
日本人は場面ごとに「うちの奴」「愚妻」「あいつ」などと、ひどい言葉を使い分けている。妻と呼ぶ人は少ない気がする。もし英語話者が愚妻を直訳して、my
stupid wife と言ったら、聞いた相手は「この人は自分の妻と不仲な関係にあるのかな?」などと感じるし、もし妻の耳に入ったら大変な誤解を生んでしまう。現実はドラマのコメディとは違う。
ぼくは日本の生活が長いから、何かの拍子で「家内」と言うことがあるかもしれないけれど、ぼくはそのとき心理的には「妻=家内」の関係で話している。愚妻という言い方は、自分に属するものを低めて、相手を高めるので「謙譲語」という「敬語」の一種らしいけど、日本語の敬語は本当に難しい。
ぼくは日本人が自分を指し示すとき、男性なら「おれ」「ぼく」「わたし」「わたくし」などといろいろ言うけど、英語には‘I’ひとつしかない。相手が誰であろうと、自分を示して、大統領も‘I’と言うし、ホームレスの人も‘I’を使う。けれども、日本人は相手の性別・年齢・地位・職業などによって、自分の呼称を使い分けて、自分で勝手に自分自身を上げたり下げたりしていると感じる。
相手に対しても「あなた」「あんた」「あーた」「おたく」「きみ」など、これに書き言葉も加えると、とても数多くある。そして、やっぱり相手を勝手に上げたり下げたりしていると感じる。
ぼくは「あなた」と「あんた」の使い分けがわからなくて日本人に質問したことがあるけど、自分が心理的に相手より優位に立ちたいと感じたとき、無意識に「あんた」が出てくると聞いて日本語は面白い言葉だなあと思った。
そして、日本人はいつも相手を見下したり、わけもなくへり下ったりするのではないかという疑問がわいた。一方、英語の二人称は‘you’ひとつしかないから、原則として人間同士は対等な関係にあるとする前提を感じる。英語では常に誰に対しても平等感覚を持てるけど、日本語の人称語は人を差別しやすいと感じている。
言葉の差別感は文化の差別感につながる。西欧社会にはへつらって、アジアの同胞を無意識に一段も二段も下に置いている、と日本の友人が嘆いていた。その人は「日本人が民族として優れていると思うのは大いなる錯覚で、文明開化が早く始まったぶんだけアジアの仲間に先行しているけど、現代の世相を見ると、次の世代は逆転するかもしれない。どんなに大きい会社も、政党も、ローマ帝国が滅びたように、国家だっていつ潰れるかわかったものではない」とぶつぶつ言っていた。
印欧語の人称語は、人間が平等であることを裏打ちして使っているけど、その反面、悪口を作りやすい言葉だから、白人の一部にはカラー民族に対する理由のない優越感があって、ぼくはそれをとても失礼な感情だと思っている。
どんな言葉も、とても繊細なものだから、気をつけて遣わなければならないけど、人称代名詞に関するかぎり、日本語より英語のほうが人間関係において優れた面がある。
(M・F)